うつ病に対する運動療法の有用性 精神医学クローズアップ Vol.5
中川 伸 先生(山口大学大学院医学系研究科 高次脳機能病態学講座 教授)
うつ病の治療法として薬物療法、身体療法とともに心理教育、認知行動療法、対人関係療法、問題解決技法、認知リハビリテーションなどが進化してきていますが、海外では運動療法に関する研究も進められています。
そこで今回は、中川 伸先生に、わが国における現時点でのうつ病に対する運動療法の位置づけから、推定される抗うつ作用のメカニズム、さらには推奨される患者像や研究の将来展望までをご解説いただきました。
―うつ病への運動療法は、現在、精神科の先生にどのように認識されているのでしょうか。
うつ病に対する運動療法の試みについては、既に1980年代初頭から海外を中心に報告されており1-8、治療手段のひとつになり得ることは精神科医にも広く認識されていると思います。しかし、わが国では伝統的に、急性期のうつ病には休養を重視する、すなわち「からだは動かさず、ゆっくり休ませる」という診療方針がとられてきたこともあり、多くの精神科医にとって運動療法は、「見たこともなければ、実施したこともない」という、“馴染みのない治療法”となっているのではないでしょうか。
―同じ非薬物療法の認知行動療法と比較した場合、運動療法はどのように位置づけられていると捉えればよいのでしょうか。
うつ病に対する認知行動療法は、まだ実臨床の場で根づいているとは言い難いものの、精神療法の中では合理的で理解されやすく、また「こころの健康科学研究事業」9の一環として厚生労働省がその研究を後押ししたことなどもあって、薬物療法とともに考慮される機会は多いと思います。一方、運動療法は、その適応となる疾患や対象患者、運動の強度・期間・頻度などを明らかにするためのいくつかの臨床研究が最近になってようやく開始されるようになった、という段階です。
事実、日本うつ病学会の「うつ病治療ガイドライン」において、認知行動療法は軽症うつ病に対する治療法の中でも、「基礎的介入に加えて、必要に応じて選択される推奨治療」として新規抗うつ薬と並列で記載されているのに対し、運動療法は「うつ病の運動療法に精通した担当者の元で実施マニュアルに基づいて用いられることがある」との位置づけで、しかも「運動の効果については、否定的な報告もあり、まだ確立された治療法とはいえない」と記載されています10。
―わが国のガイドラインでは運動療法に対して慎重な立場がとられているのはなぜでしょうか。
確かに、うつ病患者に対しての運動療法の有用性は、複数の介入研究やメタ解析でも報告されており1-8、自験例でも一定の効果があるようだという結果を得ています11,12。一方、運動療法の抗うつ効果については否定的な結果も得られているほか13、運動療法が有効な患者群の同定も行われておらず、最適な運動条件などについても今のところ一貫した見解は見いだされていません。そうしたことから、運動療法はまだ確立した治療法とは言えない、というのが実情でしょう。
また、たとえメタ解析などで運動療法のポジティブな結果ばかりが示されたとしても、すぐにはガイドラインで推奨されることにはならないと思います。というのも、メタ解析の結果がすべてというわけではなく、さらには“馴染みのない治療法”であるがゆえに、実施しようにも具体的な手法が分からず、行える環境にもないという課題があるからです。
―運動療法の抗うつ作用のメカニズムについてお教えください。
運動による抗うつ作用の神経生物学的なメカニズムや影響については、未だ解明されていないことが多く、これまでに動物モデルなどを用いた検討から、脳血流の増加14、脳内神経伝達物質(ドパミン、ノルアドレナリン、セロトニン)の増加14、成長因子(BDNF、IGF-1、VEGF)の増加14、さらには海馬での神経細胞新生などの関与が示唆されています15,16。ただ、いずれも傍証の域を出ず、運動療法と抗うつ作用の因果関係を証明するまでには至っていません。
―どのようなうつ病患者が運動療法に適するとお考えでしょうか。また、その運動強度やうつ病患者に推奨する際のポイントについてもお教えください。
うつ病患者の中には抗うつ薬の内服に拒否的な方もおられますし、そのような方すべてに認知行動療法のような治療法が受け入れられ、それが有効というわけでもありません。そうした状況においては、運動療法がうつ病の治療アプローチのひとつとして存在感が出てくると思います。
また、臨床的な課題のひとつは、抗うつ薬での急性期を終えていったんは軽快した患者の再発・再燃に対する予防や治療です。うつ病は、ストレッサー(stressor)に対しての正常な生体内応答が破綻した脆弱な状態と言えます。ですから、再発・再燃を防ぐには、極端なストレス反応(stress response)を抑えるために脳のレジリエンス(resilience)を高めておくことが重要です。そこで、たとえば運動療法によって海馬における神経細胞を新生させ、新たな神経ネットワークを構築することができれば、そうした脆弱性の補填・回復に寄与するのではないかと期待しているのです。
近年、うつ病をはじめとする精神疾患を原因として休職している労働者に対し、職場復帰に向けたリハビリテーション(リワーク)が行われています。そこでのプログラムの一環としてオフィスワークや作業療法などに加え、運動療法も採り入れてみてはどうかと思います。「運動したことで、気分がよくなった」という自己コントロール感が得られるかもしれませんし、運動によってもし減量できれば「運動して痩せて体型もスッキリした」という達成感も味わうことができ、意欲の向上にもつながるのではないでしょうか。
なお、運動強度に関しては、実はこれまで、うつ病に対して一定の効果を得るには、中強度以上の運動を継続的に行う必要があると考えられてきました17。ところが、我々が実施したヒトを対象とした心肺運動負荷検査(CPX)を用いた予備試験*aでは、無酸素性作業閾値*b程度の軽強度の運動であってもよい可能性が示唆されています18。
したがって、日常臨床においては、うつ病の急性期を過ぎたあたりから散歩などの軽めの運動を勧めるのがよいと思います。からだを動かすことで活動性が上がり、食欲や睡眠にもよい影響を及ぼすほか、屋外に出ることで気分転換にもなるからです。ただ、うつ病患者は真面目で律義な方も多く、規則性を重視するあまりに物事へのこだわりが強かったり、あるいはもともと運動への嗜好性が低い(運動嫌いな)方もいたりするため、特段、運動の頻度や回数などを指定することなく、「できる範囲でいいので、気軽に始めてみましょう」などと声を掛けるのがよいと思います。
―うつ病における運動療法の研究やその臨床応用は、今後、どのように発展していくのが望ましいとお考えでしょうか。
前述したように、運動療法の抗うつ作用のメカニズムは未だ明らかにされていません。加えて、「どのようなうつ病患者が運動療法の適応になるのか?」という、運動療法が有効とされる患者群の同定も行われていません。ですから今後は、たとえばうつ病患者を対象にした介入研究を行って、運動療法の施行前後でのうつ症状に加え、バイオマーカー、脳MRI画像、神経認知検査データなどの変化を捉えたり、遺伝子解析を行ったりすることで、何らかの特徴や相関性が見いだせないかと考えています。
そのような結果をもとに、もし運動療法が有効である患者群を捉えることができれば、そうした好適患者に対してはうつ病治療の開始時から、エビデンスのある治療選択肢のひとつとして運動療法を提示することが可能となるため、うつ病の個別化治療へのさらなる推進の一助となるのではないでしょうか。
さらに、そうした運動療法施行前後での、生体の変化を綿密に捉えることで、うつ病の寛解までのメカニズムが明らかにされたり、あるいはそうした知見を活かして、抗うつ薬の創薬に結び付けられたりするようになるのではないかと期待しています。
注釈
*a
対象:大うつ病もしくは持続性抑うつ障害の患者(n=8)
方法:対象者に対し、10分間のストレッチと5分間のエルゴメーターでのウォームアップ後、主運動として15~25分間のサイクリングを行うという指導付きのセッションを週2回、16週連続で実施した。また、運動中は心拍数で運動強度をモニタリングし、心拍数が無酸素性作業閾値を超えないように運動強度を調整した。運動プログラム開始前(0週目)、中間(8週目)、終了時(16週目)に対象者の抑うつ・不安症状、睡眠の質、QOL、社会機能などを評価した。なお、本予備試験は、シングルアーム、非ランダム化デザインで実施された。
結果:運動開始前(0週)ならびに8週、16週目におけるHamilton Rating Scale for Depression (HAM-D)、Clinical Global Impression of illness Severity (CGI-S)、Beck Depression Inventory-second edition (BDI-Ⅱ)の平均スコアは以下の通りであり、中でもHAM-D平均スコアは8週目に有意に減少し、16週目まで同じレベルで維持されていた。[n=8、HAM-D平均スコア; 0週目 13.4±4.2、8週目 8.4±3.5、p<0.001、16週目 8.6±4.3、p<0.05 ; ANOVA。CGI-S平均スコア; 0週目 3.5±1.0、8週目 3.0±0.5、16週目 3.0±0.7。BDI-Ⅱ平均スコア ;0週目 25.0±6.6、8週目 20.0±6.3、16週目 18.4±6.7]。さらに、一部のQOL尺度や社会機能、認知機能も改善されていた。
本試験の限界:本試験はシングルアーム、非ランダム化デザインを使用したため、抗うつ薬の潜在的な影響や時間の経過による変化、さらには繰り返しのような他の要因を排除することができなかった。また、サンプルサイズも小さかった。
*b
無酸素性作業閾値:軽い運動から運動の強さが徐々に増していくとき、有酸素運動から無酸素運動に切り替わる転換点となる運動強度のレベルのこと。Anaerobic Threshold(AT)とも称される。
取材/撮影:ルンドベック・ジャパン Progress in Mind Japan RC
取材日:2022年8月4日
取材場所:オンライン形式
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