精神・神経疾患に立ちこめる「脳の霧」 ― ブレインフォグとは何か
Long COVIDの登場以降、患者さんが訴える「頭の中がもやもやする」「考えがまとまらない」といった主観的症状を表現する「ブレインフォグ」という言葉をよく耳にするようになりました。ブレインフォグは正式な疾患名ではなく、患者が訴える認知機能障害の総称ですが、この、言葉がクローズアップされた背景には、この症候群を経験した当事者自らが声を上げたことが契機となっていたようです。
歴史的経緯
このブレインフォグの言葉の起源は、1817年に医師ゲオルク・グライナーが提案したドイツ語の「Verdunkelung des Bewusstseins」にまでさかのぼると言われています1。英語にすると「clouding of consciousness」あるいは「brain fog」、そして日本語では「意識混濁」と訳されるこの概念は、「せん妄 delirium」を医学的に定義する言葉として使われてきた歴史があり2、ブレインフォグは、実はせん妄の定義と共通の歴史的起源を持っています3。結局ブレインフォグはせん妄とは全く別の文脈で使われることになり、医学的な診断名とはならなかったものの、このブレインフォグに類似した言葉は、Long COVIDが注目される以前からさまざまな疾患領域で使われてきました(例えば、全身性エリテマトーデス(SLE)の「lupus brain fog」4、線維筋痛症での「fibrofog」5やブレインフォグ6、神経障害性体位性頻脈症候群(POTS)7や片頭痛におけるブレインフォグ8、うつ病での「cognitive fog」9など)。
Long COVIDによるブレインフォグへの注目
ブレインフォグという言葉を医学界の前面に押し出す契機となったのはCOVID-19感染症後に持続する症候群、いわゆる「Long COVID」でした。そしてそれは医療の側からではなく、この症状に悩む当事者の側からの提言が原動力となった経緯がありました。
Long COVIDの概念もあまり浸透していなかった2020年4月13日のNew York Timesに掲載された記事10の中で、作家のFiona Lowensteinは、自身がCOVID-19に感染した後の様々な後遺症に悩まされ、「集中困難と短期記憶の喪失」を体験したと述べています。この自身の経験を契機にして、彼女はCOVID-19症状を経験した、あるいは経験している人々のためのオンライン支援グループ(Body Politic COVID-19 Support Group)を立ち上げました。このグループ内での交流を通して、当事者は既存の医学研究では自分たちの経験した症状が反映されていないことに気づきます。そうした当事者の一派が、国際的な患者主導研究組織であるPatient-Led Research Collaborative(PLRC)を立ち上げ、COVID-19の感染の後にどのような症状が長引いていたのか?に関する640人への"患者主導"アンケート調査研究を行い、詳細な研究レポートをオンライン上に発表しました11。そこにはCOVID-19感染で通常見られる感染症状の他に、後遺症症状として「brain fog/concentration challenges」が生じると記載されており、これが最初にCOVID-19でのブレインフォグの存在をメディアに宣言した情報になりました。このPLRCはさらに研究を推し進め3000人以上のデータを集め、PLRC共同設立者の一人であるHannah Davisが世界保健機関(WHO)のウェビナーに招かれ研究の成果を発表しました12。その中で、COVID-19感染後も続く主な症状として、疲労感、認知機能障害、(軽微な運動でも悪化する)労作後倦怠感、感覚運動症状(めまい、振戦、知覚異常)、頭痛、記憶障害、不眠症、動悸・息切れ・めまい、言語障害、関節痛、胸部圧迫感など多彩な症状があること、特に認知機能障害「ブレインフォグ」を経験している人のうち、67.5%(3214人中2169人)が病気のために労働時間を短縮あるいは働けなくなったこと、そして86.2%(3310人中2853人)が仕事に軽度~重度の影響を与えたこと、また、ブレインフォグによる認知機能障害や記憶喪失は、年齢との間には関連性がなかった事も報告されました。Hannah Davisはその後、精力的に患者主導のLong COVID研究を推し進め、様々な重要な研究論文発表に加わり、この領域の牽引者として、2022年のTIME100 Next(TIME誌が選ぶ世界で最も影響力のある次世代の100人)に選出されました。
そして、このPLRCの行った患者主導研究のレポートは、アメリカ疾病予防管理センター(CDC)によるPost-COVIDに関するCDC公式ガイドラインにも引用され、「brain fog」も"Cognitive impairment or 'brain fog'" として症状リストに含められました13。さらに、WHOが2021年に発表したCOVID-19後遺症候の臨床ケース定義(Hannah Davisがワーキンググループメンバーとして加わっている)でも「brain fog」の用語が使用されており14、当事者の"草の根"運動から生まれたこの言葉は、医学的診断カテゴリではないものの、当事者が苦しむ認知機能障害を端的に表現できる言葉として広く知られることとなりました。
人々の頭の中の「ブレインフォグ」
冒頭に述べたとおり、医学的にはまだブレインフォグに明確な定義が与えられているわけではありませんが、では逆に医学の枠外で、人々が「ブレインフォグ」と聞いてイメージするものは何か?という問いに大変ユニークなアプローチで取り組んだ大規模な研究があります15。
研究の対象となったのは、25,796人の一般人(何らかの疾病に罹患している人も含まれる)で、脳の健康に関心があり、経時的に自身の健康情報を記録するアプリをスマホにダウンロードした人々です。対象者はアプリでブレインフォグに関係しそうな29の多彩な項目(人口統計学的な背景情報、併存疾患の有無や生活習慣などの潜在的リスク要因に関する質問、認知機能テスト、不安・抑うつ評価、脳震盪後症状の評価等)に回答し、その中には「ブレインフォグ」を体験しているかどうかの選択肢も含まれていました。
結果として、まず28.2%の人が、何らかの疾患に罹っているかどうかに関わらず、自分は"「ブレインフォグ」を体験している"と報告していました。そして、機械学習を用いた包括的解析の結果、ブレインフォグは、「集中または注意の困難」として特徴づけられる主観的な訴えであり、具体的には「会話の追跡困難、約束の記憶困難、事務作業や暗算の困難を含む日常生活活動における機能障害」と関連することが明らかになりました。また、ブレインフォグを訴えた人では客観的な神経心理テスト(特に修正ストループテスト)のスコアは低く、認知的干渉を抑制する能力と処理速度の遅延を示していました。また、ブレインフォグがあるが集中困難がないと報告した人も少数いましたが、機能障害がより軽度でした。本研究で見られた結果を総合すると、ブレインフォグは多面性を持つものの、その本質的な認知症状は「集中・注意困難」であり、これはlong COVIDの有無に関わらない普遍的な主観的経験であると考えられました。
本研究では、研究対象者に「ブレインフォグとは~」という定義を与えずこの言葉だけを提示したときに、研究者の意図が対象者に伝わることなく、2万人以上もの人の「ブレインフォグ」と聞いて思い描く状態像をまとめあげていくことで、当事者主体的にブレインフォグとは何かを調査している点に意義があるものと思われます。
ブレインフォグという言葉がもたらしたもの
2025年になり、日本でも、厚生労働省が発行したCOVID-19診療の手引きの中で、COVID罹患後症状のポイントとして、「疲労感・倦怠感,筋力低下,集中力低下,ブレインフォグ,認知機能障害などの神経症状が高い割合で報告されている」ことが挙げられ、「ブレインフォグは「脳の中に霧がかかったような」広義の認知機能障害の一種で、記憶障害、知的明晰さの欠如、集中力低下、精神的疲労、不安などを包含する。「頭がボーっとする」などの自覚症状が特徴的で、記憶障害、集中力低下などを伴うと、戸惑いや焦りだけでなく、日常生活や就学・就労,職場復帰などの妨げにもなり得る」 と記載されるに至りました16。
また、このブレインフォグの言葉が表舞台に立ったことで、これをターゲットとして機序の解明を目指す神経生物学的研究も増えています。Nature Neuroscience誌に発表された研究では、Long COVID関連の認知機能障害患者において血液脳関門の破綻と持続的な全身性炎症が示されています17。また、マスト細胞とミクログリアの相互作用や、ヒスタミン、インターロイキン-6(IL-6)などの神経炎症の関与も報告されています18。ミトコンドリア機能不全とエネルギー代謝障害も重要な機序として着目されており、ウイルス感染による脳内低酸素状態で、神経細胞のミトコンドリアでのエネルギー代謝が障害され、認知機能が低下しブレインフォグが起こる機序が考えられています19。また2023年にCell誌に発表された論文では、一部のCOVID-19患者でウイルスが腸内に数カ月間残存し、炎症により腸管でのトリプトファン吸収が低下することでセロトニン濃度が低下し、倦怠感、記憶力低下など、ブレインフォグ様の症状の原因になりうると示唆されています20。Nature Medicine誌に発表された研究では、COVID-19入院時のフィブリノーゲンやDダイマーといった血液バイオマーカーが6ヶ月後および12ヶ月後の認知機能障害を予測することが示され21、ブレインフォグの発症の客観的予測因子の存在が示唆されています。
おわりに
ブレインフォグという言葉は、古くからその存在が語られてはいましたが、COVID-19後遺症を患った当事者コミュニティによる患者主導研究は、医学・医療がそこに目を向ける事に大きく貢献した事をレビューしました。精神・神経疾患に立ち込める「脳の霧」を晴らすために、医学・医療が「当事者の声」に耳を傾け、科学的エビデンスを積み重ねることで、理解を深めていくことが求められているものと思われます。


