妊産婦のうつ病 ~多職種連携による切れ目のない妊産婦のメンタルヘルスケア~
自殺した妊産婦の約5割はうつ病をはじめとする精神疾患を有していたことが報告され1、近年妊産婦のメンタルヘルスケアがその重要性を増してきています。
「うつ病による妊産婦の自殺ゼロ」の実現のため、各地域で多職種連携を軸とした様々な取り組みが行われています。
重要性を増す妊産婦のメンタルヘルスケア
日本の妊産婦の自殺は、他の先進国と比較して多いと報告されています2。2005~2014年に東京23 区で報告された妊産婦の自殺は63例で、うち妊婦の約4割、産婦の約6割がうつ病をはじめとする精神疾患を有していました1。一方で、2015~2016年の政府統計において、妊産婦の自殺として分類されていなかった妊娠中および産後1年未満の自殺が日本全体で102例確認されたという報告もあり3、実際の妊産婦の自殺はさらに多く、それに伴い、うつ病を有する妊産婦も多い可能性があります。うつ病をはじめとする精神疾患は、全妊娠合併症の中で最も発症頻度が高いということもあり4、産科領域では、『産婦人科診療ガイドライン 産科編2017』5に精神疾患合併妊娠に関する項目が追加され、日本産婦人科医会は2016年版、2018年版の『母体安全への提言』の中で妊産婦のメンタルヘルス問題を指摘しています6,7。また、日本精神神経学会と日本産科婦人科学会が合同で『精神疾患を合併した、或いは合併の可能性のある妊産婦の診療ガイド:総論編』8を2020年6月に公表するなど、近年日本では妊産婦のメンタルヘルスケアの重要性が認識され、周産期のメンタルヘルスへの介入が進められています。
妊産婦メンタルヘルスケアにおける課題~妊産婦の精神科受診の壁~
妊産婦メンタルヘルスケアにおける課題~妊産婦の精神科受診の壁~『産婦人科診療ガイドライン 産科編2020』(以下、産科GL2020)9では、初診時の精神疾患の既往の確認と、妊娠中のうつ病や不安障害の発症リスク評価を行い、下記の①もしくは②に該当する妊婦は精神科医へ紹介することを推奨しています。
①精神疾患の既往がある。
②うつ病や不安障害の発症リスクが見込まれ、重度精神機能障害の疑いがある。
しかし、実際に精神科医が妊産婦の治療を行う機会は、それほど多くないと思われます10。その理由として、妊産婦のうつ病発症率は10〜15%と高いものの11、発症自体に本人や家族が気づいていない、もしくは気づいていても精神科を受診すると薬を処方され、授乳が禁止されることを恐れることなどを理由とした受診拒否が挙げられます9。また地域によっては、かかりつけの精神科をもたない精神障害ハイリスク妊産婦の受け入れ施設の少なさも指摘されており12、産科GL2020においても「精神障害ハイリスク妊産婦を全例精神科へ紹介することは困難である」と明記されています。
メンタルヘルスの不調に気づけるのは妊産婦に接する機会の多い助産師、看護師、保健師、産科医、小児科医であり、精神科受診に至らない多くの妊産婦を支えている現状があります10。日本の周産期には、母子手帳交付、妊婦健診、分娩、新生児訪問という一連の流れがあるため、その中で妊産婦と関わる職種間での情報共有や適切な対応ができれば、妊産初期から産後まで切れ目のないメンタルヘルスケアを行うことが可能になると考えられます。
妊娠初期から産後まで、切れ目のない妊産婦メンタルヘルスケアのための連携体制構築の事例
妊産婦のメンタルヘルスケアは、うつ病などによる自殺リスクのある妊娠初期から産後1年目まで行う必要があります3。その間、全ての妊産婦に切れ目のないケアを提供するためには、地域が一体となれる連携体制の構築が必要です。
以下に、病院や自治体が主体となって行った、妊産婦メンタルヘルスケアのための連携体制構築の事例を紹介します。
- 愛知県の取り組み13,14,15
愛知県では2012年より、妊娠届書に母子保健法施行規則で定められた項目に加え、妊婦の身体的・精神的・社会的状況を把握するための項目を独自に追加し、うつ病などのリスクがある妊婦については医療機関と情報共有を行っています。また、2019年からは愛知県が中心となり、妊産婦のメンタルヘルスケアを目的とした愛知県内の産科と精神科の連携強化を進めています。愛知県の総合周産期母子医療センターの1つ、名古屋大学医学部付属病院では、産科、新生児科、小児科、精神科での連携体制を構築し、妊産婦のメンタルヘルスケアだけでなく、産後の子供の発達に関するフォローアップまで行うことで、妊娠中から産後まで切れ目のないメンタルヘルスケアを実践しています。 - 徳島県の取り組み16
2018年、徳島県周産期医療協議会に妊産婦メンタルケア部会が設置され、妊娠期から産後まで周産期を通しての妊産婦のスクリーニング法や精神科紹介・連携時の対応方法が示された指針『徳島県妊産婦のメンタルケア対策―早期発見や支援にポイント―』が策定されました。これに伴い、分娩可能な産婦人科施設1軒、精神科施設4軒のみである徳島県西部圏域では、保健所が中心となり、地域独自に産婦人科と精神科の連携体制構築が進められました。そして、西部圏域の4市町村の保健師と産婦人科医、小児科医、助産師、精神科医などが協議し、上記指針をベースに周産期のスクリーニング方法や精神科へ紹介する際のフローチャート、西部圏域医療機関相談窓口一覧などを収載した、徳島県西部圏域独自の手引きを作成しました。 - 東京都世田谷区の取り組み17
世田谷区の行政が中心となり、2012年より地域の多職種連携体制の構築が図られてきました。その中で聞かれた、妊産婦に携わる医療・保健・福祉関係者からの意見を参考に、世田谷区では妊産婦メンタルヘルスケアのための多職種連携マニュアルを作成しました。また、地域の産科医や助産師、小児科医、精神科医、世田谷区役所職員が1ヵ月に1回集まり、情報共有のためのミーティングを実施しています。さらに、妊産婦のメンタルヘルス情報サイト『母と子のサポートネットせたがや』を開設し、インターネットを介したメンタルヘルスケアも行っています。 - 長野県須坂市の取り組み18
厚生労働科学研究班グループと須坂市が協働し、産後の母親のメンタルヘルスを向上させる母子保健システム、「須坂モデル」を開発しました。2014年より市役所に母子保健コーディネーターを配置し、母子健康手帳交付時に全妊婦と面接を行い、心理社会的リスクのアセスメントをしています。リスクのある妊産婦への対応フローチャートを関係者間で共有することで、多職種連携をスムーズにしています。妊産婦に携わる医療・保健・福祉の関係者が2ヵ月ごとにリスクのある妊産婦について検討会議を実施、顔の見える連携を可能にしています。
妊産婦のメンタルヘルスケアに臨む精神科医に求められることと今後の展望
明治学院大学心理学部の西園氏は、妊産婦メンタルヘルスケアの地域多職種連携で精神科医が理解すべきことを以下のように述べています19。
――精神科医は主に「精神医学モデル」で捉えており、他職種のスタッフは、「臨床心理学モデル」、「母子保健モデル」、「虐待防止モデル」などの多様な視点から対象者にかかわる。特に、多職種会議などではそれぞれがどのようなモデルで妊産婦に関与しているかという理解も必要である。
また、地域で多職種連携により妊産婦が精神科紹介・受診に至った場合の精神科医の心構えについて、東北大学病院精神科の菊地氏は以下のように述べています10。
――妊産婦自身が不調を自覚し、助けてほしいと思う一方で、できない自分を責めたり、精神科の治療薬により授乳の機会を奪われてしまうと考えたりする場合もある。この矛盾する心理を理解しながら診察をすることが重要である。
晩婚化や高齢出産の増加など社会的環境の変化や、不妊治療の進歩などに伴い、妊産婦を取り巻く課題は複雑さを増しており20、メンタルヘルスの介入余地も多様化しています。無治療の妊産婦のうつ病や他の精神疾患は妊産婦の自殺のみならず、本人の養育能力低下や児への虐待、児の精神発達障害との関連が国内外で報告されており2,21、母子保健衛生としての幅広い対策が求められています。
周産期メンタルヘルスは、関連する各職種・組織の役割の明確化と、役割を十分果たす連携体制の構築が必要不可欠です。連携体制の構築と円滑な運用により、周産期メンタルヘルスのリテラシーが向上し、「うつ病による妊産婦の自殺ゼロ」へと繋がることが望まれます。